So-net無料ブログ作成

『浄土真宗は仏教なのか?』の感想。 [本の感想系]

2013年5月29日の日記「たぶん、おすすめでない本。」
http://chishu.blog.so-net.ne.jp/archive/20130529

2013年6月18日の日記「著者ご本人がコメントをくださいました。」
http://chishu.blog.so-net.ne.jp/archive/20130618

でも言及のある、『浄土真宗は仏教なのか?』の感想を書きました。
長いです。

章立てに従い、着々と行きます。


【はじめに】

 真宗の僧侶は「ビクビク」も「戦々恐々」もしていません。している人もいるかもしれませんが、そのビクビクや戦々恐々はいずれ解消されます。それが真宗です。真宗の僧侶でそれがわかってない人は、師匠や先輩や同輩、後輩に尋ねたり、思いをぶつけたりして、それらを解消すべきです。解消が難しい場合は、その問いを保留状態で維持し続けるべきでしょう。

「江戸時代から徐々に教学として確立されてきた従来の浄土真宗の枠内だけでの「真宗学」をまるっきり解体して、浄土真宗はそもそも仏教かどうかという視点から新たに組み立て直します。ですから、これまでの「真宗学」がバラバラになるほどの内容になると思います。」pp.004-005

 「真宗学」を「解体」するとおっしゃっていますが、知らないものは解体できません。建物に鉄球をぶつけて破壊することを指して「解体」という、それと同じことがしたいとおっしゃるなら解体かも知れませんが、肉もそうらしいですが、いろいろきちんと理解してやらないと、解体にはなりません。

 1999年に出版された竹内靖雄『〈脱〉宗教のすすめ』PHP新書
http://www.amazon.co.jp/dp/456960918X/
という本があります。宗教を知らない人が宗教からの脱却を奨励するまったく無意味な本です。理解していない対象を解体しようとするのでは、それと似たような形式の轍を踏むことにしかならないと思います。


【第一章】

 地の文の立場と専門用語の意味が偏向しているので、それをさしおいて読む必要があります。

 まず、立場的には、藤本氏はテーラワーダの立場であり、したがって、地の文も、価値中立的ではなく、むしろテーラワーダ仏教至上主義、または、テーラワーダ仏教以外は真実の仏教として認めないという立場から書かれています。

 次に、専門用語的には、たとえば、大乗経典をめぐる藤本氏の重要キィワードは「嘘」「偽物」「偽作」「パクリ」「騙り」「盗品」等です。このすべてが記述語として頻出し、すべての大乗経典はお釈迦さまの直説ではないということから「偽物」と決めつけられ、口を極めて罵られ続けて第一章がほとんど終わってしまいます。

 大乗経典がすべて「偽物」という説は、大乗経典が嘘でも騙りでもないという事実を知っているわたしの立場からすればわたしを「この本は最後まで読むべきなのか?」という不安に駆るものだし正直瞋恚の煩悩の発露をひしひしと体感させられるものでもありました。

 藤本氏がおっしゃるように、お釈迦さまの直説以外はすべて「偽経」であり「偽物」であると言うのなら、現存するすべての経典が「偽物」であることに、おそらく藤本氏の意に反し、藤本氏の語る文脈では、なります。なぜなら『阿含経』でさえお釈迦さまの「直説」とは到底言えないのは論を俟たないからです。(これは藤本氏が「相当古い」「一般向け」の書であると認識され、どちらかというと軽んじていらっしゃるらしい、でも、わたしには底抜けに素晴らしい本だと認識されている『バウッダ』に書いてあります。アーガマにはお釈迦さまの直説が弟子たちの編集と口承とによって伝承されたものが相当含まれてはいるが、それはつまり厳密には「直説」とは言えない、また、第一結集の内容だけで成立しているのではなく後世の挿入も相当含まれている、とのことです。わたしもちょっと不思議です。お釈迦さまは空を空として説いたのか。お釈迦さまがすべての現存するジャータカをすべての現存するジャータカのように説かれたのか。)これはあまりに大胆な説であると認識せざるを得ません。あるいは逆に、偽経という言葉にさほどのインパクトはもはやないということが藤本氏は言いたいだけなのかもしれません。

 蛇足じみながらわたしの理解を付言します。(蛇足でない部分もあります。)

 わたしは、中国成立の経を偽経と呼ぶという従来の説に従っています。また、大乗経典群は、お釈迦さまの直説が伝承されて成立した(直説そのままではない)『阿含経』とは異なり、いわゆる大乗仏教運動の中で成立した、お釈迦さまの直説ではないが仏説と呼称し得る経典群であるという、『バウッダ』の説に全面的に依っています。

 仏教は、お釈迦さまの直説そのままであるから尊ばれるのではありません。仏教は、仏により、すべての「わたし」が確実に仏に成り得る道が示されているから尊ばれるのです。仏教各宗の説示をヨコ一列に並べてどれがすぐれているあれがすぐれていないと品評する対象ではまったくありません。わたしが何によって仏に成るのか。それだけです。

 ここで注意すべきは、わたしが仏に成る道の外はすべてわたしには今は必要ないからといって、おとしめて良いということにはならないということです。よく誤解されますが。

 浄土真宗は仏教です。テーラワーダも仏教です。しかし、わたしが仏に成る道はテーラワーダには示されていません。でも、わたしに必要ない教えであるからと言って仏教ではないとはわたしは言いません。言えるはずがない。真実である仏の真意は真実とは対極にあるわたしにはあまりに量りがたい。仏はいろんな存在が仏に成るたくさんの道を示されているのです。

 藤本氏は、ひょっとすると、テーラワーダがすべての仏教の根幹部分に存在すると考えていらっしゃるのかも知れませんが、それは誤解です。歴史的にはそのように言える部分は確実にありますが、しかしそれをもって、現存するすべての仏教の教義教学の根幹部分にテーラワーダが存在するということではありません。教えがテーラワーダから逸脱しているからといって仏教でないわけではありません。

 仏は仏に成るためのたくさんの道を示されます。お釈迦さまの直説そのままだけが仏教なのではないし、お釈迦さまの直説以外には何らの意味も見出さずお釈迦さまの直説以外には仏に成る何らの真実も含まれないと考えるのが仏教なのでもない。仏教はお釈迦さまによる教説が今に至るまで絶えることなく脈々と仏教者によって伝承されて来たものの総称であり、わたし自身が仏に成る道が説かれているものの総称です。


【第二章】

 阿弥陀仏が架空の創作上の仏であると言って無意味化しておきながら、仏に「任せる」とか他力本願とかの説明を一生懸命、しかし真宗的には間違っているとしか言いようのない説明を一生懸命になさっています。読んでいて涙が出ました。かつてのわたしのようです。しかしわたしはこんな間違いは、真宗学のゼミでたぶん言っちゃったと思いますが、周囲の人の反応?無反応?に支えられ、……ゼミの時はまったくだめでしたが、その後、ものすごく時間がかかって、やがて、お聴聞を通して、間違っていることを教えてもらました。人それぞれ、いろいろな場合があるようですが、藤本氏には今のところそのように言ってくださる「先達」のような人がいなかったのですね。

 この章は、真宗的には間違ったままで突っ走ってしまっています。そして、というか、でも、というか、この章の出発点は「阿弥陀仏は創作仏」。

 そうであれば、それに「任せる」ことに藤本氏の中では何の意味もないはずなのに、そこに執着していらっしゃる。一体何なのかと思います。

 テーラワーダでいくなら最後までそれで行けばいいのに。どうしてそこで真宗をからめるのか。本当は真宗の信がわかりたくてたまらないのだろうか。もし聞即信がわかれば『鉄鼠の檻』みたく「大悟いたしました!」くらいおっしゃるのでしょうか。

 いいえ、それはありませんね。真宗の信は、そういうことではないのですから。


【第三章・第四章】

 第三章は、浄土があるかないかを、たぶんテーラワーダの立場から考え、大乗経典群に説かれている内容を、上座部系の経典の内容から裏付けようとしています。かなり無理がありますが、というか完全に無理ですが、そしてこの本の地の文は大乗経典群は偽物であるというところから発しているのですが、「上座部系の考え方でも浄土はあることにして良いんでないか」的な考え方になっている、ように読めます。

 第四章は、『浄土三部経』諸本を(たぶん)網羅的に参照しつつ論じ浄土往生の方法を探っています。真宗のように(というか善導大師のように)、三部経すべてを『無量寿経』の文脈で読み通すという読み方はしていません。地の文がやはりテーラワーダに偏向している点を除けば興味深かったです。源信和尚の二十五三昧会の内容も紹介されています。そして、真宗とは異なり、臨終来迎を重視しています。(真宗は常来迎)

……

 藤本氏はすべての大乗経典を「偽物」認定していたはずです。「偽物」に何がどう説かれていようと意味のないことではないのかなと思いました。そして、浄土経典に説かれる浄土を藤本氏がやるようにテーラワーダ的に歪める必要はありません。また、歪めて牽強付会を行うとわかるものもわからなくなります。なぜここまでして浄土にこだわるのかがわたしにはわかりませんでした。大乗経典が「偽物」だと言うのならテーラワーダ一本でいくしかないでしょう。

 ただ、藤本氏は、仏教と、お釈迦さまが開示された世界観に先立つインド的な輪廻の世界観を完全に是認しているようです。そこはホッとします。とても良いなと思いました。人間の後も人間に生まれることを無根拠に前提としているような輪廻観ではない。『ぼくの地球を守って』的ではなく『エンジェルビーツ!』的な輪廻観。それをこの世界を貫く真理のひとつとしている。それはとても共感できます。それは良いのですが、しかし地の文がその世界観を紹介する時にまったく「仏教では」という書き方をしていない点に今までとはちょっと違った問題と違和を感じます。なぜなら、そのような輪廻観は仏教者にしか通じないからです。『ぼくタマ』の影響を受けたソウルメイトたちにはもちろん、神秘主義的でオカルトな輪廻観を生きる人にも受容されません。というより仏教以外の世界観を生きる人にはほとんど受容されない、それが仏教で考えている輪廻です。

 たとえば、キリスト教の世界観の人には輪廻の世界観はありません。輪廻という「考え方」があることは理解され得ますが、キリスト教は、世界が実際にそのように(輪廻があるように)出来ていて、わたしたちは輪廻して来た存在であり、この後も輪廻するという事実を事実としているわけではありません。これは、仏教者がキリスト教の世界観を聞いて、そういう「考え方」があることは理解するけれど、世界が実際にはキリスト教の世界のようにはできあがっていないことを知っている、といううのと似たようなものだと思います。

 藤本氏は、そういうことに無自覚だからこうなるのか。それともこれは「敢えて」の戦略的なものなのか。それはちょっとわかりませんでした。

 また、悪因悪果・善因善果がお釈迦さまの説だという意味のことをおっしゃっていますが、これはわたしの仏教理解とは異なります。因果の道理というのはそれほど単純なものではありません。また「今」からあとのことを「果」的に見るのにもとても違和を感じます。いや、今の行為がこの後の果を導くのはそうなのですが、でも、今の「この因」が後の「あの果」を確実に導くのです、というふうには考えないのです。「善因」が「善果」を生む、とは考えないのです。仏教にもとづく哲学では、逆で、「今という果がある前には必ず因と縁とがあった」と考えるのです。今わたしが悪だと思ってやっている行為が必ず悪因となり必ず悪果をもたらすとは考えません。善についても同様です。

 なお、親鸞聖人の「即得往生」理解について、『註釈版』を引用しつつ、「即」が「つく」であるという意味の、きわめて本願寺派的な理解を述べておられます。完全否定した三部経と浄土と浄土往生の方法とを得手に解釈している中に本願寺派のオーソドックスな理解が突然出て来たので困惑しました。


【第五章】

 第五章では、否定したものを中途半端に生かそうとするための頓珍漢がさらに加速装置を使ったかのように加速します。もう誰も追いつけないように思います。じわじわきます。もう泣けません。笑えます。真宗をテーラワーダ的に是認することは不可能です。そんなことは藤本氏もわかっていらっしゃると思うのに、なぜそんなことをしようとするのか。まったく理解に苦しみます。

 藤本氏は、テーラワーダの方では師匠がいるのでしょうが、真宗の教義や教学を勉強するときには師匠がいないまま、仲間もいないまま、自分一人だけでやってしまったってことなんだろうかと思います。それではわかるものもわからないだろうし、まちがいなく野狐禅になってしまいます。そうなるであろうことは、わかったでしょうに、なぜそこを端折ってしまったのだろう。わかりません。

 この本は、何かもっといいことが書いてあると思っていました。むかし、親鸞会の『なぜ答えぬ』か何かを読んでがっかりしたのにちょっと似ています。いや、違いますね、あの本ほどの期待は、実はありませんでした。でもあまりに前書きと後書きを読んだときの予想通りで、拍子抜けしています。わたしも刻々と変化しているのですね。なんまんだぶ。

 サイボーグ009では、加速装置を使ったジョーには誰もついていけませんが、でも、そういうジョーにもカメラは密着します。そのような感じでなら、わたしも藤本氏についていくことができるかもしれません。


【第六章】

「何か一つを言いすぎると、他の何かと矛盾したり他の何かが欠けてしまうので、それもなんとか収めようとしてまた別の言い方をして、どんどん変な方向に言いすぎてしまいます。また矛盾が見つかると、さらに別の言い方をして、それまた元の話と整合がつかなくなって、という感じで、現在の浄土真宗は、なんだか矛盾ばかりの、突っ込みどころ満載の新興宗教みたいです。」p.220

 矛盾しているように見えるのかも知れませんが、矛盾はしてません。
 一本筋が通ったところから見ているので、それは矛盾にならないのです。

 また、「新興宗教」というのは特定の時代に発祥した新宗教のことを指します。たぶんこの文脈では「新宗教」とするのが学術的には正しいでしょう。

「そして、大きな矛盾があります。浄土真宗では「往生即成仏」で私たちもどうせかならず悟れるのなら、今さらかしこまって窮屈な思いをして難しい仏法を学ばなくても大丈夫なのではないでしょうか。何しろ、死んだらすぐに悟れるのですから。」p.222

 真宗のお寺に育って何を聞いていたのですか。 ゜・(ノД`)・゜・。

 「どうせ」という言葉をそこに使う時点で、そして「~ではないでしょうか」という表現を使っている時点で、真宗を語るときにわかっているべきことがわかっていません。語る資格がありません。聞く資格はあると思いますが、たぶん今の藤本氏には聞くことができないと思いますし、説明してわかるものでもありませんが、説明します。

 わたしたちは、すべてが御恩報謝です。

 藤本氏が何度もおっしゃっているように、わたしが阿弥陀さまのおっしゃる「そのまま」のわたしで、娑婆の縁が尽きたとき浄土に往生して即成仏して還相回向でこの世界に南無阿弥陀仏となって返ってくるのは、フツウに考えるとあり得ないことですが、それでも実際に起こるのです。

 それを事実として知ると「どうせかならず悟れる」という言葉は出て来なくなります。同様に、「窮屈な思いをして難しい仏法を学」ぶという意識もなくなります。「ああ、安居なんて本当は行きたくないよ!」と素直に言うことができるように、わたしはなってしまっております。仏法を学ぶのはお礼を言っているのと似たようなものなのです。

 もちろん「如来の真実義を解したてまつ」るのは難しいです。わたしの理解を超えているところも多々あります。それでも仏法を学ぶことはとても楽しいです。たとえ夏の安居の問答で自分の仏教理解や真宗理解が中途半端でひとりよがりでどうしようもなくて、それが故にとても恥ずかしい思いをすることばかりであっても、それでも、というか、それだからこそ、阿弥陀さまに救われるという事実を知らされた上で初めて可能となった学問は、とても楽しいです。

 「自分はどうすれば救われるのだろう? どうすれば自分は仏になれるのだろう?」という学問は、大変につらいものがあるのかもしれませんが、「自分は救われる。確実に仏に成る。」という事実を知らされた上での、「ではなぜそんなことが言えるのか? それが事実であることをわたしは知らされているが、ではなぜそれが事実なのか?」というところを、自分の小さな頭脳でそれでも探っていく、如来の真実義の一端を、ほんの一端を味わっていく、そのような学問なので、とても辛い場合があっても、全然、「こっちの知識が閾値を超えなければ幸せにならない・なれない学問」とは性質が異なっていて、そのつらさは、すごいたのしいなかのつらさなのです。

 わたしたちは、すべてが御恩報謝です。

 藤本氏は、それがわからなかったから、真宗に真実性がないと誤解して、離れてしまわれたのですね。そしてそれがわからなかったから、テーラワーダから真宗を裏付けようと考えてしまったのですね。でもご心配なく。藤本氏がわかる・わからないに関わらず、ありがたいことに、真宗は真実の教えなのです。

 自分にその真実性がわからないからといって、それが真実でないと断定するのは、かなり不遜であり、失礼です。テーラワーダと真宗とは、同じ仏教の中にありますが、誤解を恐れつつ言えば、180度異なる宗教です。自分がどちらかに立ったならば、もう一方のありようは、もう一方の文脈で理解しなければ、理解できるものではありません。

 キリスト教を仏教の文脈で100%理解するのは不可能ですし、仏教の立場からキリスト教の言説を取り出してあれこれ詮索したり改善提言するのは、有効だとしても、有効性に限界があります。それはおわかりいただけると思います。藤本氏は「同じ仏教だからテーラワーダから真宗を理解し語り尽くすことが出来る」と誤解なさっているようですが、それは不可能です。なぜそんな単純なことが藤本氏にわからないのかが、わたしにはわかりません。

「しかし煩悩具足のまま極楽浄土に往生して、修行する暇もなく即時に成仏するのなら、そんな凡夫がそのような仏さまと利他行まで対等になれるほどの功徳を、わずかでも積んでいるのでしょうか。そのような利他の功徳までも、丸ごと阿弥陀仏からいただくとでもいうのでしょうか。」p.250

 すばらしい。そういう疑問は大切になさってください。
 浄土真宗が「無茶苦茶だ!」と他宗の方から言われるのは、こういう疑問を持たれているからなのですね。それはよくわかりますが、しかし、疑問に思われている内容は事実なので仕方がない。
 にんげんが何をどれだけ「無茶苦茶だ!」と言っても、関係ないです。

 仏教は、藤本氏が思っているよりも、遙かに深く広いのです。


【第七章】

「「唯一絶対の神」などという、わけの分からないもののことではありません。」p.259

 キリスト教もユダヤ教もイスラムも否定するのですね。考え方としてはわかりますが、是認や同意はできません。言葉を補って、たぶん藤本氏が本当に言いたいことにして言い直すと、

「「唯一絶対の神」などというと、わたしの理解を完全に超えていますが、そういう、わたしにとってわけの分からないもののことではありません。わたしにとって理解ができる範囲での、」

くらいになるでしょうか。

 これはわたしの持論であって事実ではないのかも知れませんが、あるひとつの信(信心・信仰からくる信心のようなもの)を得たり頂いたり、くださるのをそのまま味わうようになると、他の信も、なんとなくですが、ものすごく如実に「わかる」ようになります。

 真宗がわかってないのにわかってるつもりで書いていらっしゃるので、読むのがまたつらくなりました。

 また、「自力無効」という誤字にはちょっと参りました。しかしネットではよく出てくるので、あるいは誤字でないのかも知れません。しかし伝統教学では「自力無功」というふうに表記するのが一般的です。

 また、他力は、浄土真宗の文脈では、わたしが浄土に往生するときにはたらく阿弥陀さまの本願力のことだけを指します。ちょっと書いておられますが、そのためにはたらくすべての力を味わいの上では他力と表現することもできるとは思いますが、厳密には、そういうことです。「他力」が「人事を尽くして天命を待つ」だと完全に誤解して使ってる人もたくさんいます。「自分に都合良くはたらく何らかの力」と考えている人もいます。しかしどちらも真宗の文脈の上では間違った解釈です。他の考え方の上に立つ場合はこの限りではありません。

 テーラワーダがわからなくても真宗はわかるし、真宗がわからなくてもテーラワーダはわかるんだと思います。とは言っても、どっちかがわかったら、どっちもわかるもんだとも思ってます。藤本氏はなんでこんなにわからないのだろうと、とても不思議になりました。絶対にわからない、でも、だから、わかる。そういうふうになると思うんですけど、なんでわからないんでしょう。

 藤本氏が自分で自分の立場をぐちゃぐちゃにしてるのがよくわかるのは、お釈迦さまが実際に説いたことでなければ意味がないと言いながら、ジャータカのすべてを事実として認定しているところです。そこにはものすごい「すっとばし」があるんですが、それを自覚してらっしゃらない。お釈迦さまが仏であるというのは、ジャータカによって裏付けられるものではありませんよね。わたしが仏を仏だと認識しているから、わたしは仏教徒なのに。なんでそんな単純なことがわからないのかがわかりません。

 というか、藤本氏は真宗が好きで好きでたまらなくて、親鸞さまも阿弥陀さまも大好きで。なのにどちらの教説も事実も味わいも本当にはわかってない。そういう自覚がたぶんあって、それでも問わずにいられないから、地元の布教大会でそういう発表というか布教をなさって、それに対して、きちんと先輩方が答えた。なのに藤本氏はそれを拒絶としかとらなかった。そこに最大にして唯一の、この本の泣き所というか、わたしが涙を流すところがあるのかもしれません。わたしはもっと前に泣いてしまいましたが。でも、なぜそれを拒絶だと思ってしまったのか。先輩はそれを言うことで藤本氏にわかってほしいことがあった、ただ、それが藤本氏には伝わらなかった。

 伝わるように言わないと、ダメだと思います。涙なしには読めないし、真宗が猛省を迫られるところでもあると思います。真宗のことが好きで、真宗の救いがわかりたくて、求めた人に、阿弥陀さまは「答える」という形式ではない答え方をきちんとなさっているのに、そのことを、わたしたち真宗者が、きちんと示すことができなかった。

 阿弥陀さまの邪魔をしてしまったことになります。
 よかれと思って。

 これは、悲しいことです。

 そして、自分が自分のままで歩み続けることの否定が仏教です。『七仏通誡偈』もそれを言っている。「相当古」くて「一般向け」の『バウッダ』にさえそんなことは書かれています。そして藤本氏も『七仏通誡偈』を知っているし内容を把握されている。なのに、藤本氏は仏教に会ったと言いながら、自分が自分のままで歩み続けてしまおうとしている。

 完全に、そこが、わたしはおかしいと、思います。

 真宗が好きで間違ったことをドキドキしながら言ってる人に「きみ間違ってるよ」と言ったんだけど言い方が悪すぎてうまく伝わらなかった、言われた方もそれ以降まったくオーソドックスに近づかなかった、ということでしょうか。

 そういうことがボーリングのレーンのこっち側で起こって、隣の隣のレーンにボールが飛んでってストライク、ではなくやっぱりガター、というか途中でボールが破裂、みたいな感じかも知れません。

 大乗を完全否定しておきながら否定したのと同じ論理で自分の論の根拠にしているものも一緒に否定。そのうえで阿弥陀仏の浄土が何なのか、還相回向ってなんなのか、信心って何なのかを、テーラワーダの方向から考えて、ああなんだろうか、こうなんだろうか、って気にしてくださっている。

「にゃーにゃー言うんじゃにゃーい!」って言ってるような感じに思えます。滑稽です。でも、泣けます。


【第八章】

「他力に限らず、親鸞聖人の言葉以外のことを自分で考えて語るのは、その内容の善し悪し以前に、浄土真宗ではタブーになっているようです。」p.305

 なってません。あんまりわかってない人が親鸞聖人が明確におっしゃってるところを自己流に解釈すると「もうちょっと勉強しなさい」と明言したり言外に言ったりするということはあります。

「親鸞聖人の著述を読む人が、単なる知識ではなく自分の心の問題として読めば、理解できるかもしれません。」p.306

 自分の問題として読まなければ意味がない。真宗はずっとそのようにしてきました。このように書いていらっしゃるということは、藤本氏は違うようですね。自分を棚上げにして「理解」できる宗教などありません。

「浄土真宗でも、弥陀他力の信心をいただくことについて、信心獲得・信心決定について、いろいろな人があれこれ言ってもよいと思います。そのどれが正しくてどれが間違いか、同じく聞法求道している人には分かることだと思います。しかし、現実にはそのような独自の発言は、(西)本願寺派では異端の発想「異安心」と見なされます。内容如何にかからわず、固定された教学以外の独自説だから、とにかくダメなのです。」p.306

 何をどう誤解しているのか。事実と異なることをおっしゃっている。
 わたしは自分の思ったことをがんがんご法話で喋っています。
 他にもそういう方はいっぱいいらっしゃいます。
 ただそのときに「こっちから信心をつかむ」的に言ったら、それは「無安心」です。(異安心ではありません。)だから聞いている人は残念に思います。わたしは聞いてくださっている方を残念に思わせたことがあります。その後、「自分が救いを理解するから救われる」のではないことをきちんとやっと聞けて、安心になりました。

「浄土真宗の行法といえば、現代の真宗でも言われる「仏法を聞きなさい。聞法せよ」だけです。」p.343

 その通りです。わかっていらっしゃるじゃないですか。
 なぜ自分でこねくりまわしてしまうのですか。

 自分でこねくりまわさないとダメだと思っていらっしゃるからですよね。でも、そうではありません。自分でこねくりまわす必要はないのです。


【おわりに】

 仮想敵の設定が間違っているのではないでしょうか。ドン・キホーテのように見えます。


【あとがき】

「ただ、本願寺派と袂を分かったいきさつは、どっちもどっちかなあと思いました。もうちょっと言い方・やり方があると思う。というか、真宗のお寺で真宗以外の人を呼ぶなというのは、まったくおかしい。すべてを味わって「やっぱり真宗でよかった」と思えば良いので、もし藤本氏の報告の通りだとしたら、組のこの言い分はちょっとまずいと思う。
……でも、たぶん、お互いに誤解し合ってるんでないかと思う。この本で藤本氏が語る内容を見る限り、藤本氏がすべて正しいようにはまったく思えない。組が完全に正しいとも思えない。だから「どっちもどっち」と。

すごくいやだなあと思ったのは、あとがきに
「このような現状ですから、この本が上梓されれば、特に浄土真宗(西)本願寺派のお坊さんの多くから不興を買うことが予想されます。」
とあることです。(なんかどっかの新宗教みたい。)

わたしは経緯ではなく、この本の内容を内容として問題にしたいのだけど、それまで含めていきさつから怒っているっぽく曲解する気がまんまんなのではないか。そのように思えるのはちょっと残念。」

 わたしがこの本についていちばん最初にブログで言及した中に上のような文章があります。「はじめに」から「あとがき」までを読了したあとでも同様に思っています。


【全体を通して】

「ではこの藤本氏は何を自分の救いと聞いているのか、それがとても気になります。それはパラ見ではわからなかったので(真宗はテーラワーダと同じところを目指してるから良い、的に言ってるところがあるけど、これはちょっとおかしい。それなら真宗を聞いていないことになる。でも「浄土真宗」を名乗ることにこだわっている以上、そうではないはず。ということが示すパラ見の限界。)、一冊ていねいに、そこを読んでいけたらなと思います。」

 というふうに言ってわたしは読み通す決心をして、読み通したのですが、結局、わからずじまいでした。

 真宗の信とは違う信を得ている方であるのは予測が付いていましたが、ではどのような信を得ているのかも、よくわかりません。

 テーラワーダ的に、限りない輪廻を「エンジェルビーツ!」的に繰り返しながら少しずつ仏に近づいていくという信を生きていらっしゃるのかもしれません。それならそれで、問題ありません。

 問題は、そのような道を歩んでいるのなら、他の道をおとしめる必要がない、というか他の道をおとしめるのが謗法罪であるにも関わらず、真宗を完全に誤解なさった上でそれをなさっているという事実です。

 真宗は、テーラワーダの文脈で理解することはできません。テーラワーダ的に間違ったことを真宗が実践しているからと言って、それは仏教ではないとは言えません。

 また、テーラワーダ的に完全否定される経を完全否定し、その上で、経全体の文脈を無視して部分的にテーラワーダを投影して是認するのは、カテゴリエラです。同様に、テーラワーダ的には完全に否定される浄土の真宗を生きていらっしゃった親鸞聖人の生き様に、テーラワーダ的に首肯しうる部分があるからといって、そこを取り出して「親鸞聖人はテーラワーダを生きていらっしゃったのだ」と言っても、それは事実と異なります。それはクジラを持ってきて「これはひれがあるから本当は魚なんだ」と主張しているのとかなり似た事実誤認です。

 藤本氏がやっていることは、野球が大好きな人がサッカーを見て「それは球技として間違っている。なぜバットを持たないのか。なぜボールを蹴るのか。」と言ったり、スローインを見て「そこには野球の精神が生きている!ボールを蹴っていないからだ!」と言って絶賛したりするのと、かなり似ていると思います。「サッカーを知ってください。」としか言いようがありません。

 真宗を知ってください。


【付録】

 読んでいません。



 今のところは、以上です。結論としては、読まなくて良いと思います。
nice!(0)  コメント(5)  トラックバック(2) 
共通テーマ:

nice! 0

コメント 5

Rudel

> 真宗のお寺に育って何を聞いていたのですか。 ゜・(ノД`)・゜・。

読ませていただきました。ちしゅーさんの、この一行がある意味ではこの本の全てを表現しているのかもと思いました。
by Rudel (2013-07-09 03:11) 

不明なデバイス

異安心、特に無帰命安心の説を立てる人自身は、
無帰命安心ではありません。
その説に依って理解する人が異安心に陥ります。
言葉として完全に誤りなく表現されたものは、釈尊の説しかありませんから、十回向の菩薩でさえも修多羅に依るのです。


by 不明なデバイス (2013-07-31 20:57) 

chishu

<Rudelさん
ありがとうございます。本の感想に顔文字もどうかと思いますが、
けったいな本だし、良いかもな、と思いましまし。

<不明なデバイスさん
安居おつかれさまでした。ええと、つまり、どういうことなの。。。?
by chishu (2013-08-02 12:46) 

次

日本の仏教がダメなのは、ブッダの権威性に頼るばかりで何を説いたのかをよく考察してこなかったせいですね。
これからは「ブッダが説いたからえらい教えに決まってるだから信じろ」ではなく「こういう教えを説いたからブッダはえらい」という姿勢でやっていくべきですね。

by 次 (2015-05-11 01:39) 

chishu

次さん、コメントありがとうございます。
「日本の仏教がダメ」とのことですが、どこかダメだと思っていらっしゃるのか、教えていただけると幸いです。
また、次さんおおっしゃっている内容を総合すると、つまり次さんは、結局は次さんのおっしゃる文脈でのまさに仏陀の権威性に頼ってやっていくべきであるとおっしゃっているように読めます。
ですから、おっしゃっている内容がよくわかりません。
by chishu (2015-05-11 21:33) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 2