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念仏者九条の会 全国大会 in北海道 旭川 [政教分離]

念仏者九条の会 全国大会 in北海道、旭川、に行ってきました。

昨日は、『靖国問題』などの著者もある哲学者・高橋哲哉さんの講演会と、高橋さんと、北海道で9条や平和問題関連の活動をなさってる本願寺派の僧侶二人と、お東の坊守さん一人とによるシンポジウムでした。
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「犠牲のシステム」ってことを高橋さんはおっしゃってました。ある人の利益のために別の人が犠牲になる、そういう「システム」がある、たとえば靖国神社、たとえば原発、たとえば日本の侵略。
大変に説得力がある。びっくりしました。わたし高橋氏は本しか読んだことがなかったんですが、いやあ、すごいですね。本を読んで、きっとガンガン言う感じの人だと思ってたけど、ぜんぜんそんなことなかったです。静かに、静かに喋る方でした。熱い内容なのに静かに喋る。だから伝わるんだなあと思いました。

シンポジウムも、高橋さんの「痛みの連帯は可能か?」というのを受けた内容に一応なりました。が、4人で議論、みたいなことには時間的な制約もあってなかなかなりませんでした。でも、大変によかったです。

懇親会も、いろいろ楽しかったです。全国大会なのでいろんな土地からいろんな人が来ていて、その活動を紹介してくださいました。すごかったです。

二次会は、よっぱらうと、わたしもそうですが、人の話をまったく聞かなくなるひとが結構いて、いま考えると大変に面白かったです。アレはなんでなんでしょうねえ。

ひさしぶりにラーメンを食べて眠ってしまった。太るなあ……


二日めの今日は、午前中は、空知太神社の違憲訴訟の原告でもある谷内榮さんの講演会でした。
大きな方です。熱い方です。信念の方です。すごいなあと思いました。
まだ続いている裁判なので、手伝いというか、支援は必要だ。そう思います。

午後は朱鞠内湖に行って、ダム工事で6年間で200人?とおっしゃっていたのか? なんか信じられないくらいたくさんの人がタコ部屋で死んだり殺されたりした、その事実が明るみに出た経緯や、それを知って、調査したり、土葬された方のお墓を掘り返してきちんと遺骨を日本や韓国の遺族に届けようとしたり届けたり、いまも日韓の大学生に呼びかけてワークショップしたりしてる、その説明を聞いたり、実際に現地に行ってダムや埋葬地や「慰霊碑」を見たりしました。
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衝撃でした。
位牌って、真宗ではあまり言わない。お骨も、もちろん粗末にはしないけど、お骨を信仰の対象にしてしまうようなのは、ちょっと違うという。でも、今回のコレは、位牌が残っていたからこそ事実が明るみに出た。お骨は信仰の対象ではないのだけど、でも、遺族の思いとか、いろいろあるから、大事にする。いろいろ、そういう面でもいろいろ考えさせていただいた。


わたしは今日で帰って来ましたが、明日は、旭川の護国神社で大きなお祭りがあるので、それを見学に行くそうです。空知太神社にも見学に行く。なんというか、わくわくします。神社のお祭りを見学に行って、あつくなって、妨害とかしちゃわないか、ちょっと心配な感じもありますが、でもみんな大人だし、冷静だし、大丈夫なのかなと思ったり、しております。

帰ってくる途中で、月蝕がたいへんキレイに見えました。何枚か写真をとってみました。
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ではでは。
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空知太神社 [政教分離]

先日から空知北組(そ)を巡回させていただいてます。

昨晩は秩父別に泊めていただきました。今日は深川に泊まります。で、砂川のオカモトに給油に来たし、えらい近いので、昨日気になる判決の出た、あの空知太神社を見学に来ました。

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なんというか、わたしには、ここはフツウの神社に思えます。(建物右側の何か消した跡には「神社」とあったらしい)

神社の境内に地域の会館が建ってるのもよくあることです。うちのそばの神社にも会館がある。神社の境内の会館の起工式ではうちのお寺の住職がお経を読ませていただいたそうです、地域のみんなが「これがつまり報恩感謝だ」とおっしゃって。

ともかく、空知太神社。

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鳥居にも空知太神社って明記されてるし、地域の方々から永く大切にされて来た神社であることがうかがえます。

わたしが想像していたよりもっとしっかりした・ちゃんとした神社です。だから問題に思ったんでしょうね。これを神社じゃないって言ったら逆に失礼だと思います。

そして、もっとスッキリした着地点が見つかれば良いなと思います。

今は北菓楼・本店、喫茶室で昼食です。お菓子だけじゃなくオムライスも美味しいです。
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雪で光が散るのか、ケータイの限界かわたしの技術か、パッとした写真じゃなくてスミマセン。

ちしゅー

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2010年12月7日、14:30頃追記:
写真の位置などを変更しました。屋外でケータイ画面に表示させた写真は暗かったけど、ブログを室内で閲覧したら見やすい写真です。ってことは、撮影時に雪に影響されたのではなく、見るときに雪に影響されたということらしい。
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だって神社は宗教施設ですから。 [政教分離]

 最高裁で、市有地に神社があるのは違憲だ、という至極あたりまえの判決が出ました。市有地に仏教のお寺があっても、キリスト教の教会があっても、イスラムのモスクがあっても、ユダヤ教のシナゴーグがあっても、神道の神社があっても、そりゃ違憲です。だから当たり前の判決です。以上。

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神社に市有地無償提供は違憲
http://www3.nhk.or.jp/news/k10015108381000.html
(NHKオンライン)
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市有地の無償提供は違憲=神社敷地で使用-政教分離、別基準示す・最高裁
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010012000582
(時事ドットコム)
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砂川市有地を神社敷地に提供、最高裁が違憲判断
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100120-OYT1T00777.htm
(読売オンライン)
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 以下、蛇足。

 神社やお寺はもはや「風景」だと思いこんでいる人も多い現況ではありますが、しかし「神社は宗教じゃない」と言う人は、宗教についてもっと勉強してから発言しないとダメだと思いマス。

 だって、神社が宗教じゃなかったら、初詣もおみくじもお守りも厄払いもお札もお参りも礼拝も何もまったく意味がないでしょう。しっかりしましょう。政教分離とかなんとかそういう問題以前に、神社は歴とした宗教です。当たり前です。

 ただ、違憲判決が出たからと言って、タチドコロに撤去とか取り壊すとか、そういうことはしない方が良いと思います。政教分離を守るのは当たり前。それを大前提としつつ、土地を神社に売るなり貸与するなり、最高裁も言ってるように、なるべく多くの人が納得するような方法を模索するのが良いと思います。

 今回の神社の場合は、しかし建物の中にあるんですねえ。これは行政の怠慢か、何か勘違いしていたとしか思えない。なんでこんな変な状態で長年放っておいたんだろう。不思議すぎる。

 一般市民がこのニュースに接して、勘違いをもとに「市有地に神社がある!これで良い!」と言うのであれば、まあ仕方がないかな、知らないんだから、これから知っていけば良いな、とは思うけど、でも行政の側がこんなことで訴えられるなんて奇妙すぎる。指摘を受けたところで「あっ!ほんとだ!」って、あわてて改善しておかなければならなかっだろうに。(なんで裁判なんてしてるんだろう。はずかしすぎると思う。)

 ただ、繰り返しになりますが、今までそこにあったものをいきなり撤去とか壊すとかそういうことをするのもおかしいと思います。

 今まで気づかずに放置していた行政の側の責任も重大ですから、‥‥というか、行政の側が先に気づいて「あっ!これおかしい!」と言って改善策をとうに取っていなければおかしな事態だと思います。

 わたしには、神社側を責めることはできない気がします。だって政教分離なんてわからないで暮らしてるヒトがほとんどだと思いますから。

 何も知らない人は「神社は宗教じゃない」と言っちゃうかもしれない。そういうところで重要なのは行政だと思います。失礼な言い方になるけれど行政サイドはそういう人を「啓蒙」すべきでしょう。だから一方的に神社側に非を持って行くのはおかしい。神社側は行政側の怠慢を突いて、そして着地点を模索すれば良いと思う。

 ですから、形式的には、神社と行政の「痛み分け」的に。実質的には神社側に極めて有利なように。

 神社は宗教施設として特定の人たちの「心のよりどころ」になってるんですから(わたしの心のよりどころでは全然ありませんよ、念のため)、行政の側も無下には出来ません。超法規的措置とかも総動員して、行政はきっと神社の建ってる土地を売るなり貸すなりしていくんだろうなあ、と、行政のそういうのに完全に疎いわたしですが、今はそのように思っております。

 以下、記事。

神社に市有地無償提供は違憲
http://www3.nhk.or.jp/news/k10015108381000.html
(NHKオンライン)

自治体が神社に敷地を無償で使わせていることが政教分離を定めた憲法に違反するかどうかが争われた裁判で、最高裁判所は「特定の宗教を援助していると評価されてもやむをえない」と指摘して、憲法違反だという判断を示しました。

この裁判は、北海道砂川市が市の所有地に建てられている「空知太神社」に敷地を無償で使わせていることについて、地域の住民2人が、特定の宗教に便宜を図ることを禁じた憲法に違反するとして、神社を撤去し、土地を明け渡すよう求めていたものです。市は「建物は町内会館としても使われており、宗教的な意味合いは薄い」と主張していました。20日の判決で、最高裁判所大法廷の竹崎博允裁判長は、今回のようなケースが憲法に違反するかどうかは「施設の宗教的な性格や敷地を提供する経緯、それに一般人の評価などを考慮し、社会通念に照らして総合的に判断すべきだ」という基準を初めて示しました。そして、「建物は神道の神社の施設に当たり、行われている祭事なども宗教的な行事で、一般の人の目から見て、特定の宗教を援助していると評価されてもやむをえない」と指摘して、政教分離を定めた憲法に違反すると判断しました。そのうえで、1審と2審が命じた神社の施設を撤去する以外にも有償で土地を譲渡したり、貸し付けたりするなど、憲法違反の状態を解消する適切な方法があるとして、札幌高等裁判所で審理をやり直すよう命じました。神社の多くは戦後、国から土地の払い下げを受けましたが、そのまま国や自治体の土地に建っている神社も各地に残され、専門家によりますと、少なくとも1000か所はあるとみられるということです。政教分離をめぐって最高裁が憲法違反だと判断したのは、愛媛県が靖国神社への玉ぐし料を公費から出したことをめぐる平成9年の判決以来で、2件目になります。

市有地の無償提供は違憲=神社敷地で使用-政教分離、別基準示す・最高裁
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010012000582
(時事ドットコム)

 北海道砂川市が市有地を神社の敷地として無償で使用させているのは憲法の政教分離原則に反するとして、住民が違法確認などを求めた訴訟の上告審判決で、最高裁大法廷(裁判長・竹崎博允長官)は20日、従来の「目的効果基準」とは別の憲法判断基準を示し、市有地の無償提供を違憲と判断した。その上で、違憲状態を解消する方法をさらに審理するよう、二審判決を破棄し、札幌高裁に差し戻した。

 政教分離原則に関する最高裁の違憲判決は、1997年の愛媛玉ぐし料訴訟に次いで2件目。

 14人の裁判官中8人の多数意見。憲法判断では、差し戻しに反対した1人を含む9人が違憲、1人が合憲とし、4人は判断できないとした。

 この神社は、町内会館と併設された空知太(そらちぶと)神社。

 判決で大法廷は、公有地を無償使用している宗教施設について、歴史・文化財的な建造物が少なくないほか、寺社の敷地が戦前、官有地に編入された経緯からいまだ公有地上の施設が相当数あると指摘。これらの事情は重要な考慮要素になるとし、目的効果基準を用いず、「施設の性格、提供の経緯や態様、一般人の評価などの諸事情を考慮し、社会通念に照らして総合判断すべきだ」とする別基準を新たに示した。

 その上で、砂川市の無償提供に関し「氏子集団の神社を利用した宗教的活動を容易にする効果があり、一般人の目から見て、市が特定の宗教に便宜を提供し、援助していると評価されてもやむを得ない」とし、公の財産を宗教団体の便宜のため利用してはならないとする憲法89条違反と判断。また、宗教団体への特権付与に当たり、信教の自由を保障した憲法20条にも反するとした。

(2010/01/20-19:16)

砂川市有地を神社敷地に提供、最高裁が違憲判断
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100120-OYT1T00777.htm
読売オンライン

 北海道砂川市が市有地を神社の敷地として無償で提供した行為が、政教分離原則を定めた憲法に違反するかどうかが争われた2件の訴訟の上告審判決が20日、最高裁大法廷(裁判長・竹崎博允長官)であった。

 大法廷はこのうち1件の訴訟について、「市が特定の宗教に特別の便益を提供し、援助していると評価されてもやむを得ない」と述べ、違憲と判断した。政教分離訴訟で最高裁が違憲判断をしたのは1997年4月の愛媛玉ぐし料訴訟判決に次いで2件目。

 問題になったのは、同市内の「空知太(そらちぶと)神社」と「富平(とみひら)神社」の敷地。市民が市長を相手取り、公有財産の管理を違法に怠ったとして、神社の撤去などを求めていた。

 違憲判断が示されたのは、空知太神社を巡る訴訟。判決によると、同神社の建物は町内会館と一体化しており、鳥居などとともに市有地上にある。

 市側は「建物は全体で評価すると町内会館であり、特定宗教の援助にはならない」などと主張したが、判決は、敷地内に鳥居があり、建物内部に祠(ほこら)があることなどから、「神社施設にほかならない」と指摘。また、氏子集団が祭事を行っていることから、「敷地を無償で使用させる行為は、市と神道とのかかわり合いが社会的に相当とされる限度を超える」と述べた。

 ただ、大法廷は違憲状態の解消のため、1審・札幌地裁、2審・札幌高裁が認めた神社施設の撤去以外にも、市有地の譲渡などの手段があり得ると例示。他の手段があるかどうかについて審理を尽くすよう、同高裁に差し戻した。

 一方、富平神社の訴訟は、市が、市有地だった神社敷地を町内会に無償譲渡した行為の違憲性が争点になった。大法廷は無償譲渡自体は「違憲の恐れのある状態」を解消するための措置だったとして、合憲と判断した。

(2010年1月20日15時28分 読売新聞)



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『YASUKUNI 靖国神社』を見ました。 [政教分離]

 こんにちは。

 (以下5日の日記です。諸般の事情でアップは今日になりました。)

 本日、2008年9月5日、映画『YASUKUNI 靖国神社』を見ました。その感想を書きます。以下ネタバレになると思います。ご了承ください。

■感想
:あんまり面白くなかったです。
:監督は映画を撮る才能あんまりないのかも?と思いました。

以下ネタバレを承知で続きを読む


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『靖国』はやはり見るべきらしいです。 [政教分離]

 作家の高橋源一郎さんのコラムに、映画『靖国 YASUKUNI』の評が載ってました。リンクは以下です。

http://www.mammo.tv/column/genichiro_takahashi/20080426.html
「『靖国』の見方」

 見ずには語れないという、ごくあたりまえに思える事実の確認から始まって、一映画である『靖国』について語られるときに語られる傾向にある多くのことと、あんまり語られない傾向にあることとを指摘したり、ええ、やっぱり面白いです。

 「どんな映画なのか?」について、内容的な部分での立ち入ったコメントはありません。でも「やっぱり見た方が良いかもなあ」と思えるコラムになってると思いました。

 北海道では、

苫小牧・シネマトーラス、
十勝・シネとかちプリンス、
函館・シネマアイリス

 で上映するそうです。

 見たいなあ。

 今のところ見られそうなので、見て語ろうと思っております。

 ではです。
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なかなか良いのだけど。 [政教分離]

 今日も断続的に稲垣久和『靖国神社「解放」論』光文社ペーパーバックスを読んでいます。

靖国神社「解放」論  Yasukuni and Public Philosophy

靖国神社「解放」論 Yasukuni and Public Philosophy

  • 作者: 稲垣 久和
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2006/07/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 なかなか良いのだけど、まだ読み終えてないのです。

 とても良いのです。良いのですが、わたしヨコ書きって読みにくいんですよねえ。

 今日の出来事の中から、政教分離関連で非常にびっくりしたのは、北海道新聞の「卓上四季」という一面コラム(朝日の「天声人語」)がすっかり「首相の靖国参拝オッケ!」論になっていたことです。道新の不甲斐なさや酷さは重々承知していたつもりですが(数年前の勝毎花火大会での事故報道とその後の関連報道がわたしには特に印象的でした)、しかしこんな酷いとは思ってませんでした。主義主張が一切なくカタチなき「世論」に文字通り「左右」されるのが道新の真骨頂であるようです。どんな内容だったのかって? わたしが嫌うような内容だったのです。イヤ過ぎるので引用は無しです。

 ごほん。

 話は最初に戻って稲垣氏の本です。今日びっくりしたのはあまりに小泉さんその他の方々が形無しになってるところです。

 小泉首相の靖国参拝後のインタビューに、「日本では死ねば皆がカミ、ホトケになる」という言い回しがありましたが、これは国際的な公共社会ではなんら倫理的な意味を持たないものです。カミやホトケを定義しない以上、「日本では死んだ人は皆がシンダヒトになる」と言っているだけで無内容です。(p.209)


 なるほど、と思いました。しかしそれ以前に、稲垣氏が随所で仰有っているように、日本では死んだ人がみなカミやホトケになるわけではありません。だってキリスト教の人もいるしイスラムの人もいますから。それに真宗の人もいます。

 つまり、小泉首相はたしかに「精神の自由」を持つとはいえ、それを首相という立場で濫用してはならないのです。
 なぜなら、そもそも近代の立憲主義に立つ憲法とは、国家権力の濫用から市民の権利を守るための歯止めの装置だからです。首相は1人の国民ではありますが、内閣総理大臣という役職にいる間は公(=国家)権力の行政部門の最高位機関にあります。ですから一私人を装ったとしても、「内閣総理大臣」という公の肩書きを記載し、しかも、公務時間中に参拝していることが問題なのです。
 さらに、憲法99条には国務大臣や公務員の「憲法尊重擁護の義務」があって、そのうえで同20条3項の「国及びその機関の宗教活動の禁止」や89条の「公の財産の宗教組織への支出禁止」条文が適用されているのですから、この条文にも違反することになるのです。
 要するに小泉首相は、人類が到達した近代という時代、さらにはその近代が生み出した政治統治法である「立憲主義」をまったく理解していない、ということです。しかも、彼には欧米の文化・伝統や言語への素養がありませんから、自分が発した言葉が国際社会でどのように受けとられるかということを考慮できません。
(pp.220-221)


 こういうふうに言ったらコンパクトなんだなあ。あの先輩にも知らせてあげよう。首相である小泉さんは「一私人小泉」と「首相小泉」との両方の要素を持っているということであり、使い分けが求められているということですね。しかし彼にはそれがどうもよくわかってない。‥‥でもこれでもわからん人はわからんのかもしれません、小泉さんみたく。ともかく小泉さんはブッシュ以上に‥‥。
 いちばん後ろの段落、特にすごいと思いました。

 戦後は、無条件の「信教の自由」 freedom of religion が与えられています。日本の歴史上で初めてのことです。この信教の自由は、民衆を公(=お上[かみ]、政府、国家権力)の権力濫用から守るために近代憲法に実定法化されたのです。あくまでも国家権力の濫用に歯止めをかけるためのものであって、権力を持つ立場にいる公人に適用されるものではないのです。したがって、前述した小泉首相の言動は、この憲法の精神の基本の「き」も踏まえていない、と言わねばなりません。(p.230)


 とてもわかりやすいと思います。しかし、

 「信教の自由を主張する人は自分の信教の自由をおかそうとする勢力に対して“寛容たれ!わたしの信教の自由を認めてくれ!”と言うが、自分自身の信教の自由をおかそうとする勢力に対しては“寛容”でないし、他人を巻き込んで自分の思い通りにすることによってのみ自分自身の信教の自由を達成しようとする人の信教の自由を認めようともしない。他者に対して“寛容であれ!”と言う前にその人が寛容にならなければならないんではないか」

 と主張する人がいます。そういう人に対しては一体どう言ったら良いんでしょうかね(いや、本当にいるんですよ。びっくりしてしまいましたけど)。

 ‥‥今日はそんな感じです。稲垣氏の言う「公共哲学」というのがどういうものか、だんだんわかってきたような気がしますが、それを含めてこの本の総合的な紹介を書くのは別の日にゆずります、というか、まだ読了できてないのです。

 この本ちょっと難しいと思います。内容的にえらい盛りだくさんだし。

 稲垣氏に一つだけお願いできるなら、「ちくまでも文春でも新潮でも講談社でも何でも良いから新書を書いてください!」とお願いします。きっともうそういうことになって話が進んでるんではなかろうか。

 ではでは。


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もっと大事なことがあるだろーに。(-_-;) [政教分離]

 最後の最後に本当にどーでもいい「公約」に固執したなあ。もう本当に、本当にしよーもない。

 小泉純一郎くんの靖国神社参拝には目を覆うしかないわけだけど、それについては左のカテゴリ[政教分離]にバカがつくほど詳しくわたしの見解を記してありますので、そちらに譲ります。かなりの分量があります。自分でも読むの相当疲れます。天皇の靖国参拝を麻生氏が云々した、そのときのニュースに対するわたしの反応、それについての他の方とのコメントの遣り取りが、その人に対するわたしの質問で収束した、そんなところもとても充実していて読み応えがあるんではないかと本人は思っています。でも自画自賛される絵って大抵それはそれは酷いしろもんであることが多いんですよね。

 ともかく。政教分離については左のカテゴリから[政教分離]をどうぞ。

 今日問題にしたいのは、マスコミです。特にNHK。

 小泉さんの靖国参拝を伝えていたときのNHKの放送のやり方・伝え方。

 あれはあまりに酷すぎる! と思いました。

 まあ、NHKのみならず、すべての放送局が酷すぎたと思います。朝来た新聞に書いてあるくらい予定調和な参拝なんだから、殊更に生中継する必要は一切ないはずだ。なのにNHKの教育とBS1以外は小泉さんの車列その他をずっと写し続け放送し続けてました。

 思えば、松坂大輔投手がプロ初登板した夜、どこの放送局も18:00頃のニュース番組でその姿を生中継したものでした。

 小泉さんのしょーもないパフォーマンスも、その程度の重みしかない気がしました。松坂という大投手が投手として初めて登板してる姿は、それは慥かに誰もが見たい場面ではあったろう。しかし小泉さんの靖国参拝は、少なくともわたしはまったく見たくない。そんなものを望んではいない。

 周知のように、小泉さんの靖国「公式」参拝が違憲であることは先日結審した裁判から見ても事実であるわけで、そこから見れば小泉さんの更なる靖国参拝は看過できない事実であり、どうでもよくない事実ではある。

 けれど、小泉さんの靖国参拝が問題視されねばならないことと、それを生中継すべきかどうかとは、厳密に区別されなくてはならないはずだ。

 全TV局がそれぞれ独自にヘリコプタを出してバカ騒ぎしたりするから彼も嬉しくなって、私的時間に私費で、でも公用車を使って「首相小泉」と記帳するという、間の抜けた立場と責任をひっさげての甚だ中途半端な公式公約参拝をしたくなるんである。カメラを意識しすぎの・カメラの前でしか政治をしようとしない首相なんて放っておけば良いのに、そんなこともわからないのか、日本のすべての放送局は。

 ひどいなあ、ひどすぎるなあ。

 ‥‥ごほん。

 さて、そこで今日のNHKの朝のニュースの、小泉さんの参拝を伝えたときの言葉について。アナウンサはこのように語りました。

「小泉総理大臣は、以前から靖国神社の参拝について前向きな姿勢を示していました」

「‥‥そういった状況を踏まえての決断であったと思われます」

(聞き取りです。この通りの字並びではない)

 小泉さんの参拝についてNHKが伝える際、「前向き」そして「決断」という、良いこと・後押しされるべきと考えられることを指し示す際に修飾語として用いられる、「善」のイメージと密接な関係にある言葉が、たくさんある言葉の中から殊更に選択されて使用されたのです。

 ここには、NHKが小泉さんの靖国参拝を「是」として扱っている姿が否応なしに見て取れます。

 また、そのときのカメラはどうだったのか。

「本当にたくさんの方が靖国神社に参拝しています。そこに小泉総理大臣の乗った車が到着しました」

 カメラは、上のようなコメントとともに靖国神社境内を映し出しました。その画像には、靖国神社を見学した人なら誰でも知っている、靖国神社という特殊環境が醸し出している、あのえも言われぬ威圧感と、玉砂利を踏み踏み境内を歩く中で感じられる息苦しさ、そしてそれゆえに濃密なものとなる参拝の達成感、それらの「重苦しさ」は敢えて表現されずにいました。

 そのかわりにカメラが選び取って映し出したのは、どこにでもあるような朝の明るさであり、どこにでも降るような雨が降っている状況であり、どこの神社にもあるような見慣れたカタチの鳥居であり、まるで初詣のようにたくさんの人でごったがえす、お祭りのような活況を呈している境内であったわけです。

 なお、これは思いこみではありません。NHKのHi-visionカメラはとても優秀であり、しようと思えば何でも、ほぼ何でも表現できるのです(『新シルクロード』の紹介フィルム参照)。だからこのように申しております。

 「ありふれた神社」の朝の中を「たくさんの人」が歩き回っている、そのように演出された靖国神社。

 そんな情景を映し出すことで、NHKは、靖国神社が、あたかも、日本中のそこかしこにたくさんある他の神社とまったく同じような機能と役割しか担っていない、ごくごくフツウの神社ででもあるかのように表現しようとしていたわけです。

 「そりゃ考えすぎだろ」?

 いいえ。繰り返しになりますが、NHKのHi-visionカメラとそのスタッフはとても優秀なのです(『新シルクロード』の紹介フィルム参照)。やろうと思えばこれくらい朝飯前です。と言うか、やろうと思ってやらなければあの靖国神社をこんなに効果的に“フツウの神社”っぽく映し出すことはできません。

 以上の視聴覚的効果を考えると自ずと見えてくるもの。

 それは、

 「NHKは首相の靖国参拝を熱烈に支持しています! 首相や政府に不利な報道は一切しません! だから国会その他でも二度といじめないでください! 他の放送局の方もよろしくお願いしますよ!」

 という、NHKが打ち出している、一つの姿勢だったのでありました。

 NHKよ、おまえもか。というか、政府から財政支援を受けている以上、そして財布のクチを政府に握られている以上、ある程度は与党寄りになってしまうのは、ある意味「当たり前」すぎる現象か。でも「当たり前」すぎても、その理由が理由だけに、わたしはとても残念だ。

 防衛策は自分でしっかり練らなければダメですね。NHKばかり見ていたらバカになる。なお、今朝はチャンネルを少しずつ替えながら、それでもNHKばかりをメインで見てたため他の局の伝え方がどんなふうだったのかわたしにはわかりません。ひょっとするともっとすごかったのかも知れない。

 でも何をどんだけ見たところでちしゅーはこれ以上バカになれないから何を見ても一緒ですよ、という気も本人すごくしてたりします。

 一つ言えるのは。

 政教分離を一切考慮しないで発言するコメンテイタが多すぎて、わたしは非常に頭が痛いです。

 また、本当は最近の現象ではないのかも知れないけれど、わたしには最近の現象のように思えることに、

 「そんなこと当たり前でしょ!あなた何言っているの!」

 で一刀両断できるかのように無茶苦茶な“なまくら庖丁”を振り回すコメンテイタが多い、ということがあります。

 「当たり前でしょ!」という発言は、その理由を提示しない限り、当たり前の理由、「なぜ?」をまったく説明できておらず、つまり初めから何も言ってないのと一緒です。発言者の思考停止を如実に示す言葉、それが「当たり前でしょ!」です。思考が停止することは悪いことばかりでもない。しかし思考が停止して脳がとても危険な状態になっていることに本人が気づけていないのなら、それはとても悪い状態です。

 最後に。

 中国と韓国がやいのやいの言うから参拝してはいけないのではありません。中国や韓国が何も言ってこないとしても、首相は靖国神社に参拝してはいけないのです。

 なぜなら、靖国神社は、歴とした神社であり、また、侵略行為と戦死者を再生産するための装置なのですから。

 つまり、首相の靖国神社参拝を是とする世論を作り出すことに寄与しようとするTVなんて、水源に害毒を垂れ流して利用者を慢性的な中毒にしようとする水道会社みたいなもんです。まさに風上にも置けない。いや水源にも置けない。

 地上波で情報を発信する(垂れ流す)立場の人間には、それなりの自覚と責任が求められると思います。

 そういう意味で、今日の朝のNHKニュースは、大失格と言えます。

 他に重要なニュースその他があったとしても、それがあのダラダラな放送で全部つぶされてしまった。車列をそのまま映すばかり、何度も同じ言葉ばかり繰り返し繰り返し喋るばかり。あれで報道のつもりなのか。

 もっと大事なことがあるだろーに。(-_-;)

 たとえば、BS2で言えば、なぜ定時通りに『きらり』を流さなかったのか!(>_<。)

 わたしはそこを本当に怒っている。テポドンが発射されてもBS2では『きらり』が見られたのに。北朝鮮による突然の軍事行動と、何日も前からわかっていた小泉の靖国参拝。なぜ後者でのみ『きらり』が定時で見られなくなるのか。

 NHKのやり方、本当にわけがわからない。

 今日は

心脳コントロール社会

心脳コントロール社会

  • 作者: 小森 陽一
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2006/07
  • メディア: 新書


を読了しました。とてもすごい本でした。春樹や漱石の作家論・作品論だけの人では、やっぱりなかったんだなあ。超おすすめです。時間みつけて紹介を書きたいです。


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靖国関係。 [政教分離]

 木村さんという先輩がブログをやっています。真宗の信心に関しても、臓器移植に関しても、時事ネタに関しても、多くの場合わたしとは異なった見解を述べられることが少なくないので、自分の意見をまとめるときに参考にさせていただくこともある、そういう先輩でもあります。
 【木村さんのブログ】

 その先輩が靖国神社への参拝に関する私見をブログ上で述べておられました。↑上のようなことがある先輩ではあるけれど、それでもあまりにヘンな気がしたので、堪えきれずにコメントを寄せました。

 今日見たら、わたしのコメントに対する返信をブログ本文として書いてくださっていました。

 ありがとうございます。

 でも、ところどころに事実誤認や無理解があって、やはり今回もすごく残念なことになっていました。

 どのように残念であるのかも含めて、コメントを寄せさせていただきます。以下は引用部以外、先輩のブログに返信として投稿したのと同じ内容です。

■(1) 政教分離について

(1) 現代日本において基本的に厳密な意味での政教分離はありえない。
・・・お寺も神社も国家の「宗教法人法」下で運営されている以上、すでに政教一致です。こういう議論をする以前に、いかなる事象を以って政治と宗教とが【分離なのか、一致なのか】の定義をせねばなりませんが、宗教法人にとって都合のいい点では無意識的に政教一致を受け入れ、都合が悪くなると政教分離を叫んでいるだけのように思います。定義不可分な以上、分離・一致は状況を鑑みて議論・判断せざるを得ないでしょう。

 木村さんは

> お寺も神社も国家の「宗教法人法」下で運営されている以上、すでに政教一致です。

 と書いておられますが、それはつまり「国家の中に宗教があり、国家の法律で宗教団体について規定し、その運営形態等についても一定の規定がある以上、これは政教一致と言うのである」というご意見だということでしょうか。
 まさかそんなことが仰有りたいのではないのではないかと思うのですが、でもそのようにしか読めないのでこの理解でいかせてもらうしかない。
 だとすれば、木村さんのそのような認識は事実誤認に基づいていることを指摘させていただくほかありません。
 国家の法律が宗教法人がどういうものであるかを規定したり、その法律を宗教法人が身の振り方のための一定の参考にしたりすることを捉えて政教一致というのではないからです。

 政教分離とはどういうことか。

 それは“国家の政治とある特定の一宗教とが相互に密接な関係にならない”ということです(というかどうしてこんなあまりに基本的すぎる内容のレクチャをわたしがしなければならないのかよくわかりませんが、続けます)。

 政教一致というのは、たとえば、真宗というある特定の一宗教が国家護持に躍起になるかわりに、国家の政治が真宗というある特定の一宗教の護持発展に躍起になる。そういうことを指します。

 そのようなことにならないというのが、政教分離です。その目的は、個々人の信教の自由を完全に保証することです。

 政教分離について、『広辞苑』にもこのようにあります。

信教の自由を保障するために、政治と宗教が相互に介入し合うことを禁止すること。日本国憲法は厳格な政教分離の原則を採用し、国や地方公共団体が特定の宗教に特権を与えたり、財政的援助を供与したり、自ら宗教的活動を行なったりすることを禁止(20条・89条)。

 このようにあります。

 今の日本ではお金がものをいうことが多いので、勢い、財政的援助が問題となってくるわけです。

 なお、現在京都では東西両本願寺で御影堂[西:ごえいどう、東:みえいどう]の修復が行われていまして、それに対し国家的財政から多額の援助が出ています。
 「それって財政的援助じゃないのか?」
 微妙に違います。
 クニはわたしら本願寺教団に援助してるんではありません。本願寺教団が結果として現在保持することになっている日本の国家的な財産(文化財)を保護するためにお金を出しているのです。
 ‥‥確かめたわけではないけど、そういうことなんだろうと思います。

 なお、公明党が国政に参加しているのは何の問題もありません。政教がキッチリ分離しているからこそああいうことが起こるわけです。

> 宗教法人にとって都合のいい点では無意識的に政教一致を受け入れ、都合が悪くなると政教分離を叫んでいるだけのように思います。

 政教分離は以上のような内容ですので、いつまでもそう思っておられても構いませんけれど、事実とは全然違うということを指摘させていただきます。また、「分離・一致は状況を鑑みて議論・判断せざるを得ないでしょう。」とのことですが、それで、木村さんはこの状況を見て、一体どのように議論したり判断したりされるのでしょうか。

■(2) 公式参拝について

(2) 首相クラスの参拝行為は政治活動に該当するか、否か。
・・・小泉・安倍が主張するように、本来参拝行動は個人の思想信条の自由によるもので、政治的な意図とは無関係です。しかし第三者より見ると政治的意図があるように見えるのは当然で、そう見えた以上、公人として参拝を控えるのも当然だと思います。これは法律的・宗教的に問題がある・無いという視点ではなく、首相らのモラルの問題として捉えて欲しいと思います。

 公人が「政治的な意図」をもって靖国神社に参拝するなど言語道断です。そこには政教を一致させようとの「政治的意図」しかないことが明らかだからです。そのようなことをする公人には、個人的には公人の風上にいてほしくありません。

 なお、いま問題となっているのは「政治的な意図」の有無ではありません。公人が一宗教法人に対し公人として参拝している・参拝しようとしている、そのことが問題なのです。政治的意図は関係ありません。その行為が意図と関係なく政治的行為になっている、そこが問題なのです。

 首相である小泉さんが靖国神社に「個人」的に参拝するのは構いません。そのときの条件は、私費・私用車・私的時間・個人的署名です。でも公費・公用車・公的時間・公人的署名では公人扱いになります。それはいけません。でも公用車しか持ってないならそれは仕方ないことになりましょうか。でもタクシーで私費で行けば良いと思います。(「でも」三連発)

 最近の小泉さんは私費で私的時間を利用した私的参拝であるにも拘わらず「首相小泉」と署名されてるそうですね。中途半端で何とも。

> これは法律的・宗教的に問題がある・無いという視点ではなく、首相らのモラルの問題として捉えて欲しいと思います。

 いや、実際に「法律的・宗教的に問題がある」のですよ。だから問題にしているのです。個人のモラルで片付けられるものではないのです。

■(3) 非宗教法人化

(3) 麻生外相らの「靖国神社の非宗教法人化の提唱」について・・・麻生氏はかなり頭の悪い人だと思いました。そしてこれこそが政教分離の原則を無視した暴論であります。政治的に都合の悪いものは宗教法人格を外す、こんなバカな話はありません。外見だけを取り繕ってA級戦犯はそのままでいいという考え方で、話になりません。これに関しては強く政教分離の徹底を求めます。

 麻生さんは首相になる気が一切ないのですよ。そのように判断せざるをえません。実現不可能ですから。本気で言ってるわけではないと思います。首相に立候補するかも知れないが本気ではありませんという意思表示だとわたしは理解しています。(本気だとしたら完全にアホだと思います。)

 なお、麻生さんは8月8日の会見で「私は基本的にこれまで地鎮祭やら何やらを見た上で、あれは宗教だという裁判はこれまで何回も行われたと思いますが、いずれも宗教というものではないという結論を既に地裁で出しておられて、答は出ているのです。」と仰有ってるので、やっぱり政教分離について本当にわかってないんだなあとの思いを新たにしています。

 また、麻生さんはAクラス戦犯は分祀せよとの考え方を示しておられます。ということで、木村さんの基本線での事実誤認を指摘させていただきます。
 【毎日新聞のニュース・8月5日より】

 あと、木村さん、政教分離についてもう少し理解を深めてからにしてください。どこをどう捉えて「原則」と言っているのか、ちっともわかりません。

> 政治的に都合の悪いものは宗教法人格を外す、こんなバカな話はありません。

 ほんの百年前にやったのと同じことをしようとしてます。
 というか、自民党がずっと昔に靖国神社を宗教法人じゃなくそうとして画策したことがありました。麻生さんの話を受けてそのときの想い出を語っておられる政治家も何人かあるようですが、つまり、彼の言葉を借りれば「答えは出ている」のです。

 ともかく麻生さんは無視で良いと思います。そのへん木村さんと一致です。

■(4) 無宗教の国立追悼施設

(4) 無宗教の国立追悼施設建設について
・・・追悼とは、立派な宗教行為です。これ以上国家が国民の宗教感情をコトロールしてどうするのでしょうか??これもバカげた話です。

> 追悼は立派な宗教行為です

 その通りです。これも木村さんと一致です。

 しかし、国立の、無宗教の追悼施設を作るというのは、「無宗教」での追悼を我々に強いるということではありません。

 また基本的なことをレクチャすることになってしまいますが、無宗教の追悼施設をクニが作ることには大変意義があります。その理由は、逆説みたく聞こえるかもしれませんが、無宗教の追悼施設はどんな宗教の追悼行為をも受容することができるからです。

 それぞれの宗教で、思い思いに追悼すれば良い。
 一律に黙祷する必要もないのです。
 画一的な方法でなければみんなで追悼したことにならないのか? そんなことはないわけです。
 それが多宗教国家・日本での、あの戦争に対する追悼の、もっとも健全なやり方であるとわたしは思っています。

 追悼が「立派な宗教行為」であるからと言って、ある特定のやり方でやらなければ(たとえば仏教的合掌礼拝とか、たとえば神道的拝礼とか)いけない、ということは、まったくないのです。

■(5) 靖国神社について

(5) 靖国神社の特異性を考慮すべきでは?・・・靖国は戦後の法律下において宗教法人化されているので、一般の寺院や個々の宗教団体と扱いは等しくあるべきものです。
しかし、靖国は大日本帝国憲法下の国家体制の思想のもと、戦争にひきずりこまれた戦没者の苦しみ・辛さを純粋に追悼する(顕彰するのは一部の右翼・ウヨクのみ)施設です。つまり264万人の戦没者は戦後の靖国のあり方やスタンスを知らされずに亡くなっていったわけです。帝国憲法の解釈では国家=神道、宗教=神道です。要するに戦前の文脈では【政教一致】なわけですよね?戦没者が意見を述べられない以上、建前として国家は必要悪としてでも戦前の文脈を重視しなければならない、と私は考えます。天皇陛下にも参拝いただく、これ当たり前です。ゆえに特例として靖国神社は国家が丁重なる態度で臨まねばならないと思います。ただし、政治家が他意を含んで意図的に参拝することだけは目を光らせねばならないでしょう。

 木村さん。
 先ほど読んだ文章には『靖国問題』について「あれはベスト靖国本ですね。痛快ですらありました。」とあったわけですが、少なくとも高橋の意見について大部分は反対の立場でいらっしゃるようですね。ではどのように考えているのか。それを示してくだささるとうれしいです。

> 要するに戦前の文脈では【政教一致】なわけですよね?

 すみません、何が「要するに」でつながってるのかまったくわかりません。もう少し文脈を判然とさせてください。

> 天皇陛下にも参拝いただく、これ当たり前です。

 「当たり前です」では何も言ってないのと同じです。どうして「当たり前」だと考えるのか、それをこそお示しください。

■(6) 真宗教団連合の活動について

(6) 真宗教団連合による、小泉参拝の中止を求める声明について・・・これは、宗教界からの政治への干渉(政教一致)です。どんな立場から参拝中止など要請できるのでしょうか?個人の思想信条の自由を犯すものでもあるのでは?念仏者は念仏者のスタンスで私の心を見つめるべきではないでしょうか?さらにいえば、サヨク的真宗僧侶は仏法の論理よりも法律的に問題があるとかいいなさる。世俗的(法律)なものを持ち出して戦うのはどうなんでしょうか? 人様の行動に文句をつける前に、念仏者としての追悼のあり方をアピールし、平和への取り組みをすすめるべきだと思います。

> どんな立場から参拝中止など要請できるのでしょうか? > 個人の思想信条の自由を犯すものでもあるのでは?

 拙文(1) を熟読してください。と言うか、政教分離についてもう少し理解を深めてください。高橋も良いですし、『ジュリスト』の『憲法判例百選』もとても良いと思います。

> 念仏者は念仏者のスタンスで私の心を見つめるべきではないでしょうか?

 何がおっしゃりたいのでしょう。念仏者は政治にクチを出すなということでしょうか。何を根拠にそう考えているのかわかりませんが、もしそのように考えておられるのでしたら、まず木村さん自身がクチをつぐむはずなので、そうではないと思います。
 ということは一体どういうことなのか。よくわかりません。どのようなことがおっしゃりたいのか、今一度お示しください。

 なお、ガルトゥングなどの提唱する「平和学」、それに伴う「構造的暴力」という問題もよくよく考えてみるべきだと思います。
 永代にわたってこの場所で人が阿弥陀さまの徳を讃嘆していくことはとても難しい、有難いことだ。しかし自分には会い難き法が向こうから遇いに来てくれて、それでわたしは遇うことができた
 仏法が自分にまで相続されてきた以上、わたしだけがこれを味わって終わりにするのでは勿体ない。いけない。これからも相続されなければならないとわたしは思います。そのためには、この世が平和であらねばならない。そのために、わたしはいま何をすれば良いか

 それをわたしは考え行動しようと思っています。

> さらにいえば、サヨク的真宗僧侶は仏法の論理よりも法律的に問題があるとかいいなさる。世俗的(法律)なものを持ち出して戦うのはどうなんでしょうか? 人様の行動に文句をつける前に、念仏者としての追悼のあり方をアピールし、平和への取り組みをすすめるべきだと思います。

 怒りとあざけりに満ちた文章のように読めます。サヨク的真宗僧侶? それはひょっとして、わたしのこと? (^_^;)

 まあ何であれ。(違うと思いたい)

 真宗の救いは、自分こそが救われなければ阿弥陀さまの救いに何の意味もないということを知らされることがすべてだと思うんです。

 ソコから見れば、「世俗的(法律)なものを持ち出して戦うのはどうなんでしょうか?」というのは、問題になりません。法律に問題があるのは仏法と関係ないからです。だからこそ、法律を持ち出して闘うこともできるし、法律に問題があると言って闘うことも出来る。

 法律の問題点を仏法的に指摘しようとすることもある意味では大切だけど、仏とともにあるわたし・阿弥陀さまから照らされて自分の影の黒さに気付かされたわたし、それだけが問題であることがわかってくる。しかしその問題は、真に問題となると同時に解決されてしまう種類の問題です。

 さて、そこから翻ってこの世を見ると、なんと問題の多いことか。

 そのような問題を解こうとするのは、わたしの生理的欲求に近いものがあります。お節介でしょうか。そうでしょう。しかしお節介が世界をつないでいるのも厳然たる事実なのです。

> 人様の行動に文句をつける前に、念仏者としての追悼のあり方をアピールし、平和への取り組みをすすめるべきだと思います。

 木村さん。そのようになさってください。

 ただわたしは木村さんのように「人様の行動に文句をつける前に」ではなく、「人様の行動に文句をつけ」つつ、そのようにしていきます。

■(7) 「政治家たれ」?

(7) 最後に、僧侶が政治のことに口出ししたいのならば、先ずは政治家になるべきである。 僧侶は僧侶のスタンスを貫き、独自の価値観を世に発信すべきである。サヨク僧侶は【真俗二諦(宗教と政治における真理観は別だとの考え)】を批判しますが、それはつまり【政教分離】を批判するということになるのだ、との矛盾に気付いていない・・・。法華経信者のように真宗も立正安国を目指すのでしょうか?

> 僧侶は僧侶のスタンスを貫き、独自の価値観を世に発信すべきである。

 そうなのですか。それは具体的にどういうことをするということなのでしょうか。

> サヨク僧侶は【真俗二諦(宗教と政治における真理観は別だとの考え)】を批判しますが、それはつまり【政教分離】を批判するということになるのだ、との矛盾に気付いていない・・・。

 残念ながら、木村さんは政教分離がまったくわかっていませんから、この文章の意味がわかっていません。真俗二諦と政教分離を持ち出して、最終的に何をおっしゃりたいのでしょうか。お示しください。

■以上。

■なお、「マルイチ」「マルニ」等は機種依存文字なので、(1)、(2)等に変更しました。

(2006年8月12日 17:50 タグ変更)

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靖国違憲訴訟、ひとつ結審。 [政教分離]

 小泉首相の靖国神社「公式」参拝をめぐる裁判がまたひとつ結審しました。今回は最高裁まで行った初の判断です。記事を紹介。三つも。

■小泉首相「靖国参拝」原告側の上告棄却、憲法判断せず
読売新聞 http://www.yomiuri.co.jp/ 2006年6月23日12時34分

 小泉首相の靖国神社参拝を巡り、日韓の戦没者遺族ら278人が「政教分離を定めた憲法に違反し、精神的苦痛を受けた」として、国と小泉首相、靖国神社を相手に1人1万円の慰謝料などを求めた訴訟の上告審判決が23日、最高裁第2小法廷であった。

 今井功裁判長は、「参拝によって、損害賠償の対象となる法的利益が侵害されたとは言えない」と述べ、原告の請求を退けた2審・大阪高裁判決を支持、原告側の上告を棄却した。原告側の敗訴が確定した。

 首相の靖国参拝を巡る訴訟では初の最高裁判決。参拝が政教分離に違反するかどうかの憲法判断はせず、参拝が公的か私的かについても触れなかった。

 訴訟の対象になったのは小泉首相の2001年8月13日の参拝。首相は公用車で訪れ、「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳した。供花料は私費で支払った。

 判決は、「他人が神社に参拝する行為により、宗教上の感情が害され、不快の念を抱いたとしても、ただちに損害賠償を求めることは出来ない」と述べた。また、原告が求めた参拝の違憲確認についても「確認の利益がない」として憲法判断は行わなかった。

 小泉首相の参拝を巡っては、全国で8件の訴訟が起こされ、これまで地裁、高裁で出た計12件の判決はすべて原告側の請求を棄却した。このうち別の訴訟の大阪高裁判決など2件の判決が「参拝は違憲」と指摘し、原告側が上訴せず確定している。
■靖国参拝訴訟で原告敗訴が確定 最高裁
朝日新聞 http://www.mainichi-msn.co.jp/ 2006年06月23日11時43分

 小泉首相の靖国神社参拝を巡り、大阪府などに住む戦没者遺族ら278人が「憲法の政教分離原則に反する」として首相と国、靖国神社を相手に1人あたり1万円の損害賠償などを求めた訴訟の上告審で、最高裁第二小法廷(今井功裁判長)は23日、「参拝によって損害賠償の対象となり得るような法的利益の侵害があったとはいえない」として原告の上告を棄却する判決を言い渡した。原告側全面敗訴の二審・大阪高裁判決が確定した。

 一連の小泉首相の靖国神社参拝を巡る訴訟で最高裁判決は初めて。ほかに2件が最高裁で審理中だが、第二小法廷が憲法判断に踏み込まない判断枠組みを示したことで、後続訴訟でも憲法判断はされない公算が大きい。

 今回の訴訟の対象になったのは、就任直後の01年8月13日の参拝。

 原告側は「戦没者をどのように祭祀(さい・し)するか、しないかに関し自ら決定する権利・利益を侵害した」と主張した。第二小法廷は「他人が特定の神社に参拝して自己の心情や宗教上の感情が害され、不快の念を抱いたとしても、直ちに損害賠償を求めることはできない」との解釈を示した。

 小泉首相の靖国神社参拝をめぐっては、6地裁で訴訟が起こされ、これまでに2次訴訟も含め、地裁レベルでは8、高裁レベルでは4判決が言い渡されている。
■靖国参拝訴訟:憲法判断せず、原告の敗訴確定 最高裁判決
毎日新聞 http://www.mainichi-msn.co.jp/ 2006年6月23日11時36分
(最終更新時間 6月23日11時46分)

 小泉純一郎首相の靖国神社参拝は政教分離を定めた憲法に違反するとして、全国6地裁で起こされた計8件の訴訟のうち、関西在住の日本人と韓国の戦没者遺族ら278人が国や首相に損害賠償などを求めた訴訟で、最高裁第2小法廷(今井功裁判長)は23日、原告側の上告を棄却した。判決は「参拝で原告の法律上の権利や利益が侵害されたとは認められない」と述べた。歴代首相の靖国参拝を巡る初の最高裁判決だったが、憲法判断や参拝が私的か公的かの判断を示さないまま、原告側の敗訴が確定した。

 原告側は「首相の参拝によって、公権力からの干渉を受けずに戦没者をどのように祭るかを決める遺族の権利を侵害された」と主張し、1人1万円の賠償を求めた。第2小法廷は「人が神社に参拝する行為は、他人の信仰生活に対して干渉を加えるものではない」と指摘。「自分の心情や宗教上の感情が害されて不快の念を抱いたとしても、ただちに損害賠償を求めることは出来ない」と述べ、参拝を巡る憲法判断に入らずに請求を棄却した。同種訴訟に大きな影響を与えることになる。

 この訴訟は大阪地裁で起こされた第1次訴訟。1審は04年2月、公的参拝と認め、憲法判断には踏み込まず請求を棄却。2審・大阪高裁は05年7月、公私の区別も憲法判断も示さず原告側控訴を棄却した。この2件を含め、この日までに12件の判決が言い渡され、賠償請求はいずれも棄却されているが、福岡地裁判決(04年4月)と大阪2次訴訟の大阪高裁判決(05年9月)が違憲判断を示して確定した。【木戸哲】

 公人が公人の立場として何をするか。それが問題になっているのに知らないふりして判決を下す。そんな判事が最高裁にいて良いはずがないんじゃないかとわたしは考えます。三権分立を本気でしっかりやるっていうのは本当に難しいことなんですね。少なくとも日本ではまったくできてないってことです。

 今日やっと上坂冬子の『戦争を知らない人のための靖国問題』を読了しました。むちゃくちゃで眠くなりました。ぽんぽんぽん!と断言しまくるんだけど根拠が薄弱なんてもんじゃない。なにもかもに無知すぎ、この人。なのに他人の無知を心配して「無知がまかり通っている」なんて章を立てたりしてる。この本にこそ無知がまかり通っているんだから始末に負えない。
 なんとかして書評を書こうと思っていたんだけど、こんな悪辣な本が出版されて本屋に並んでるという事実を思い眩惑がしてる、そのくらくらが収まるまで今はまだ書けそうにありません。


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公式参拝に今日もふと思う 2。 [政教分離]

 小泉さんが靖国神社に参拝する。参拝の真意を聞かれ小泉さんは「平和を願っての参拝です」的に抽象的に言うのみで具体的には一体どのように考えているのか伝えてくれない。だから彼の真意を知ることは出来ない。出来ないけれど、真意がどうであれ、小泉さんの行為は小泉さんのココロから離れて結果として評価され、結果として意味を生じる。

 小泉さんの靖国参拝という行為には

1.Aクラス戦犯に頭(こうべ)を垂れている。
2.他の戦没者に頭を垂れている。
3.一宗教法人に参拝している。

 以上少なくとも三つの意味がある。

 彼の参拝に対して「やるべきだ」と言う人がいる。「それはいけない」と言う人がいる。その人はどれに対して「すべき」「いけない」と言っているのか、言っているつもりなのか。

 何かややこしい問題がある場合、問題が含んでいる様々な要素を「くちゃっ」と固めたり丸めたりした上で吟味した方が良い場合もあるし、そうではなく、絡んだところをほどいて、貼り付いてるところをきっちり剥がしてから吟味した方が良い場合とがあると思う。

 靖国神社への参拝という問題は、後者だと思う。

 Aクラス戦犯の存在や行為をどう考えるかは難しい問題だと思う。

 彼らは考えた。行動した。結果えらいことになった。動機や行動の裏付けとなった情報量の多寡について見解は分かれるがその結果が「えらいことになった」というのは言えると思う。

 彼らに限らず、我々の日常に於いても、たとえ善意に根ざした行為であっても結果が無茶苦茶に終わった場合にはその責任を取る必要がある、それは言えると思う。

 ただ彼らの場合、その「責任」の取り方・取らされ方が裁判まで含めてこれまた逆に滅茶苦茶であった、それも言えると思う。

 ただ、裁判が滅茶苦茶だったからと言って彼らが裁判で扱われたたくさんの問題から完全に無罪になれると考えるべきではないと思う。

 はい、今日はココまで。(続きはあるのか。)


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